ゼネストを見て一周年小説を書きました。
これまで小説らしき文章を書いてきたけれど、書こうとしても書けないものだとつくづく思う。
どんな分野でもいえることであるが、媒体に徹するというスタンスがいちばんすんなりいく。
筆者はどんな場合でも、自分が「する」のではなく「させていただきます。そのために必要なサポートをお願いします」と意図する。
創作はある意味ダウンロード作業なのだと思う。
いつでもヒントは目に見えない雨のごとく降り注いでいるけれど、自分が立てたアンテナに情報層の周波数を同調させることができればひらめきとしてつかまえることができるのだと思う。
その周波数は人それぞれだから、様々な作品が生まれるおもしろさがある。
筆者は作品を書いているうちにどんどん変化していくのが面白いと思う。
それは登場人物が「こう書いてください」と意志を持っているように動き出していくから。
筆者が「本当にその表現でいいのかな? キャラが別人格になりはしないかな?」
はたまた「この表現は年齢制限が必要ではないだろうか? 全年齢対象にすべきだろうか?」
と客観的に俯瞰してみるけれど、表現をセーブして万人受けする作品に仕立てようとすれば、キャラの個性と生命力が失われていくのを感じてしまう。借りてきた猫のように。
なぜそう感じるのか。万人受けする作品というのはどういう作品をいうのか?
万人が知っている記号化されたキャラの外面を書くことだと思う。
それはそれでいいと思う。
しかし筆者はそれでは物足りないからキャラの内面を書きたくて書いている。
そしてキャラが「自分はこうだ!」と主張しているような切り口で書く。
本当は二次創作ではなくオリジナルを書けばいいのかもしれない。
版権ものは人物が記号化されていて人物の相関関係が共通認識されているから、詳細を省く便利さは確かにある。
与えられた構図の中でキャラを生きた人間としてどう動いていくのかを観察して書こうとするのが筆者の狙い。
妄想でもいい。幻想でもいい。全体的に調和していれば必ず作品として成り立つと思うから。
意図して媒体に徹するスタンスで書いていると、ヒントが示される。
それをキャッチして言葉を紡いでいく作業の連続。
気が付けば文字数は18000字近くまで増えていた。
忙しい読者さまには、もっと気軽に読めて短い文章であるほうが好まれるかもしれない。
大きすぎるケーキはいっぺんに食べるのは大変だから、切って食べる。
小説もそうすれば食傷気味にならずに済むかもしれない。
消化不良も起こさなくていい。
いつのまにかそんな思いが反映されていて5部構成になっていた。
そして一人称視点で男女それぞれを書き分けることにより、読み分けて脳内で混ぜ合わせることができたら、味わい方も違ってくるかもしれない。
今回の小説はゼネストを見てスイッチが入ってから、約一年。ぐるっと一周して、様々な視点で読み解いてみてやっと書くことが許された作品だと思う。
小説は生きている。だから今を書く。去年の今では書けない。来年の今でも書けない。
写真のようなものなのかもしれない。
HPに掲載しています。ご一読いただきました方には深く感謝申し上げます。