リュウと春麗の萌え日記   (そま)

リュウと春麗の萌え日記

HPは日本でたった一人だけでも読んでくださる方がいれば感謝です。

妄想は想像力。まっしろい紙に絵を描くのも、文字を書くのも、はたまた切る貼る折るも自由です。

 

筆者はあれこれ書いていますけど、何で書いているのか最初は本当にわかりませんでした。文章を書くことは得意じゃないのに。学校で作文コンクールに出したこともないし、手紙を書くのも苦手なほうだったんです。

 

むしろ自分を表現しないことが賢明な生き方と思っていて、自分の本心を人に明かすことはありえなかった。それを文字に表現するなどとても・・・ムリ!と思っていたくらい。

 

でも、ひとつだけ思い当たることがあります。

 

1992年7月。初代ストⅡのリュウさんを見て稲妻が脳天に落ちてきたときに、あまりの衝撃と戸惑いにとっさにベランダに出て空を仰いだんです。

 

あのとき、自分はいつか必ずリュウさんが探し求めている答えを知る時が来るだろう。それは誰かが小説か何か、本に書くはずだ。それを自分は必ず読むことになるだろう。

 

そのとき覚えた感動は、全身をよろこびで包まれていて歓喜に打ち震えていた。こんな衝撃は生まれて初めてだった。でも、どこかで知っていたような気がする。なぜなのかはわからない。

 

人生で、歓喜に打ち震える体験というのはめったにない。あったとしても、具体的な何かをやり遂げたときとか、人と何らかの目標に向かって成し遂げたとかがほとんどだと思う。

 

けれど筆者は具体化できない抽象的な何かに対しての魂の歓喜。言語化できないレベルの何か。

 

言えることは、抽象度の高い具体化できない何かはすでにその答えが未来に設定されていて、あとは未来をたぐり寄せるだけだとわかるもの。

 

過去⇒現在⇒未来

 

という時系列ではもはやなくて、

 

現在⇒未来⇒過去

 

という図式があてはまるようなのだ。というよりも、これらは同時に存在しているということを意識的に体観する。

 

抽象度の高いゴールを未来に設定し、あとは未来から過去に向かって進むだけ。いいかえれば未来を現在に引き寄せつづければ、未来⇒過去の連続体となってゆく。それが具体化。

 

抽象度の高い未来設定は、現在からみるととても波動が高いため、具体化(物質化)できないのだ。

 

・・・まただ。今回もこんな文章を書こうと思って書き始めたのではないのに・・・。

 

誰しも、想像力を具体化して創造の段階に入る時は、モードを切り替える。

 

けれど単なる妄想をふくらませて書くとき。例えばリュウさんと春麗さんがラブラブだったらいいな~は、顕在意識が主流なので何ら変化は見られない。

 

けれどこのごろは、未来設定したことを書くモードに切り替えたら眠くて眠くて、何にもできなくなってしまう。その繰り返しでほとんどブログもHPも書けなかった。

 

やっと、HPのシリーズを更新できました。これで終わりだと思って書いていても、書き終えてみたときに、わかる。

 

これは終わりではない。これからはじまるのだと。

 

いつもありがとうございます。<(_ _)>.。oO

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