リュウと春麗の萌え日記   (そま)

リュウと春麗の萌え日記

リュウさんを語るためには、やっぱり武道を語らねばならない・・・よね? その2

前回の続きだよ。

 

今から4年くらい前かな。

 

消防士の友達から合気道場においでって、しきりに誘ってくれていました。

 

彼は筆者が立ち上げた合気道場に来てくれていたんだけど、稽古時間と彼のライフスタイルが合わなくて、となりの県の合気道場に行っていました。

 

かなりかわった稽古しているから、おいでよって誘われていたので行ってみたの。

 

そこでは60代のK先生が指導されていました。

 

氣で相手を動かしたり、軽く触れるだけで相手を無力化したりする方でした。

 

日頃から肉体を鍛えている消防士の友達でさえ、全力でかかっても一瞬で床に落とされてしまう。そしてそのまま動けなくなってしまうのです。

 

合気道の型稽古が成立していない・・・。

 

技を極める前に相手を無力化してしまうのでした。

 

「ここに来る人は皆、武道因縁がある人です。それも最終段階の」

 

K先生はそうおっしゃいました。

 

(やっぱり武道因縁が残っていたのね・・・。)

 

自分も内心納得していました。

 

「稽古に参加している方は、みな求道者の方ばかりです」

 

先生のおっしゃるとおり、僧侶、キリスト教信者、宣教師、高校教師など人を教え導く方が稽古しておられました。そして唯一女性だった筆者は鍼灸師

 

消防士の友達は、人命救助という人のいのちを扱う仕事が四六時中プレッシャーとなっていて精神がいつも緊張しているのだと言っていました。だからここへ来たら楽になるんだと言っていました。

 

人によりそれぞれ課題を背負って稽古に来ていました。稽古時間が悩み相談になってしまうこともよくありました。

 

みんなやさしい人ばかりなんです。やさしくて感受性が強いがために、ここに導かれてくる。

 

稽古だけじゃなくて、心の在り方を先生はいつもアドバイスしていました。

 

技は心のあり方が即座に出ます。ここでの技は指一本で相手を倒してしまうことをやっていて、自我があれば絶対に技を極めることができないのです。

 

相手が倒れれば、無我になっている。倒れなければ自我がある。

 

全か無か。100%か0%のどちらかしかない。それは心の在り方で決まる。

 

人間は多次元的存在で、肉体レベルでのやり取りはここでは通用しない稽古をしていて、宇宙意識になれば相手に触れるだけで相手の肉体レベルのパワーを無力化することができる。だから攻撃的になっていては合気はかからないと先生は言っていました。

 

むしろ、攻撃した分だけ作用反作用の原理で自分にダメージとなって跳ね返るのです。

 

合気は相手と一体となる技で、パワーで攻撃しても投げ飛ばす前に、自ら崩れ落ちてしまう。先生はひとりで5人取りしても、5人がいっぺんに崩れ落ちてしまうのです。

 

そして相手だけでなく、宇宙と一体になった感覚さえある。これは澄み切った意識でなければ体感することはできないのです。

 

「ここでの稽古は、八段の師範でもできないことをやっています。最終段階の修行、最難関の稽古を最初にやっています」

 

とおっしゃいました。

 

筆者は前回の記事に書いた合気道場を開設したころ(10年位前)から、瞬間瞬間の身口意を正し、自我を滅却することを常日頃実践していたので、K先生の指導内容はとても共感できるものでした。K先生は「わたしは24時間365日合気道を実践しています」とおっしゃっていました。

 

皆と一緒に稽古していると、その方のあり方が見て取れる。みな、楽になりたいのに自我を守っているために自分を解き放てない。

 

うつ病の人もいますが、とても自我が強い。

 

固定観念、ねばならない、相手への批判、そして被害者意識・・・。

 

それらを外せなくて苦しんでいる。

 

そして彼らはそのことに気づいていない・・・。

 

武道は精神がダイレクトに術としてあらわれるからメンタル面に問題を抱えている人にはとても良いと思います。

 

うんと自分の波動を上げておかなければ、今の現状を変えることはできない。ゆえに技が極まらない。

 

筆者の場合は、多人数との稽古では技をなかなか極められないのに、先生とふたりの稽古だったら極められるのです。

 

先生の波動と同調したら、とてもスムーズに稽古が進むのです。筆者は氣のボディができていると先生はおっしゃっていて(自分ではわかりません)、指導者になるように勧められました。(いえ、そんな、おそれ多い・・・)

 

ある日、ヒーラーの方が見学に来ていました。

 

わたしの稽古を見ておられて、言われたことがあります。

 

「窓の外の山から金色のプラーナがキラキラ輝きながらいっぱい飛んできて、あなたの周りを包み込んで両手を通じて丹田の前に金色の球ができていて、両手を丹田の前から押し出す動作をしたときに、金色の球が前に飛んでいきましたよ」

 

(  Д ) ゚ ゚ヘッ!?

 

その稽古は遠隔で相手を氣で押すということをやっていたのですが。。。それってもしや!?

 

波動拳みたいなものですか?」

 

「そうです」

 

( ゚Д゚)ヒョエー

 

波動拳は本当にあるのですよ。しかも、誰にでもできる!!筆者にできたのだから、誰でもできます。

 

しかし、ゲームで波動拳が出せなくて苦労したというのに、リアルに波動拳を出してしまっていたなんてねぇ・・・。

 

稽古中に、こんな体験をしました。

 

自分を包む空間が粒粒の粒子で満たされていて、そのとき即座にわかってしまったのです。

 

「色即是空、空即是色、天上天下唯我独尊」

 

この意味が理屈を超えてわかってしまったのです。

  

どんなにたくさん書物を読んでも、人から教えてもらっても、体験体感しなければわからない。

 

それは、自分自身がそれであることだとわかるもの。

 

ひらめきは論理を瞬時に超越する。

 

それを体感したら、目に見える、見えないものもすべてが同一のものだったとわかる。

 

具体的に書けば、すべては原子(物質)でできているけれど、それを構成するためには意識エネルギーでの意図があってその物質に姿を変えている。

 

見える物は見えないもので出来ていて、実在は非物質であり、物質は非実在であると。どんなに小さな物質も、それになりたいという意識でその物質になっている。

 

そしてどんな原子も、かつての縁があって物質化する。

 

人間とパソコン、人間とマグカップ。それぞれのパーソナリティは何度も転生しても、また縁があって、そこにあるのです。

 

だから、あなたが使っている道具はみな、かつてお世話になった存在物であるのです。

 

物言わぬものにさえ、ちゃんと意識が備わっていて、また人間の役に立ちたいと願って物質化してくれているのですよ。・・・なんとありがたいことでしょう。。。

 

ゆえに、すべては同一の存在であり、原子。それはいのちであり、いのちは平等であるのです。

 

そしていのちは命であり、神であると。

 

神というのはどこか高い次元の玉座に鎮座しているのではなくて、そこかしこに偏在していて意識を同調させれば即座に臨在する。そのように感じられる。

 

偏在している実在がすべてを構成していて、自分という存在もまた、その一部である。

ゆえに、人間も草も存在物も、実在は不可視のいのちであって神。神は命であり愛。

 

見えない空気でさえ神ならば、空間はすべて愛で満たされていて、愛はつねに与えられていたのだと。常に一体だったのだと。

 

どんなに自我で自分は満たされていない、不満だと思っていても、本当は愛で満ち溢れていたのだと。

 

そのことを即座にわかったとき、感謝の思いが怒涛の如くあふれてきた。

 

このことを今の今まで知らずにいたことの心からのお詫び。畏敬の念。悔恨の念。。。

 

人間レベルの悩みがなんと愚かで近視眼的な錯覚であったかを思い知る・・・。

 

気づきというものは、自分を構成してきた「思い込み」のゲシュタルトが崩壊するの。

 

現代の知識、常識、学識、その他とらわれてきた人間社会の約束事・・・それらがすべて幻想だったと思い知る・・・。

 

自分こそわかっていると思い込んでいた観念がガラガラと崩れ落ち、これまで蓄積してきた知識、観念がなんと傲慢極まりない囚われだったかを痛切する。

 

自分の傲慢さに対してのショックと、心の底からのお詫びと深い感謝がまぜこぜになって、号泣する。涙は不純な想念を浄化し、再度ゲシュタルトが構成される。

 

するとこれまでとは全く違った意識の自分ができてくる。見える世界が変わる。

 

これを何度も何度も体験すると、肉体レベルの浄化がはじまる。

 

涙はもとより、鼻水、発熱、咳くしゃみ、下痢などの症状が出て、不純物を排出する。

 

こういう体験をした後に合気道の稽古をすると先生はすぐ気づかれる。

 

「氣」が大きくなったねと。

 

こういう体験を何度も何度も深く広く拡がりを続け、これまで何十回となく繰り返してきました。どんな小さな些細なことも、気づきを得ると同じことを体感するのです。

 

先日、先生からのお誘いのメールをいただいたので半年ぶりくらいに稽古に行ってきました。(不真面目だな~)

 

先生は積もる話があったようで、いろいろ話されていました。先生はいつもわたしとふたりのときは稽古が終わってもなかなか帰してくださいません。筆者は先生の話の聞き役だったのです。

 

「魂の課題はみな、人ぞれぞれ。わたしは、今生が最後だと思ってやり遂げると決心しました。今生でやり遂げられなければ、守護霊様にどんなお叱りを受けるかわからない。今度こそ魂の流産には決してなりません。死に物狂いでやり遂げるつもりでいます」

 

先生はそうおっしゃっていました。逐一うなづく筆者。よ~~くわかります。わたしも同じ思いだから。

 

そして感じたことは、K先生もまた、求道者であったと。そして、今生でやっと道を見つけた人なのだと。今生でK先生の武道因縁は解き放たれる。そう思いました。

 

道はそれぞれ違っても、必ずたどり着く場所は同じ。

 

その道のたどり方は家庭や学校では教わらない。親も先生も知らないから。

 

けれど道を求める人には必ず与えられる。

 

いいえ、常に与えられ続けている。求めることができる意識が与えられている=自分という存在を与えられているから求めることができるのです。

 

ただそれに気づけばいいだけなのです。